戦国武将の中でも絶大な人気を誇る、徳川四天王のひとり、本田忠勝。
天下三名槍のひとつ、6mもある「蜻蛉切」の使い手で、57回も出陣するも、怪我ひとつ負うことがなかったという猛将です。
そんな本田忠勝の祖父、父親は、織田氏と松平氏との間で1540年から約10年にもわたる、安祥城争奪の安城合戦で命を落としています。安祥城周辺に2人の墓碑が残っています。
戦で命を落とさぬように!「ただ勝つのみ」と「忠勝」と名付けられたそうです。
本田忠勝像 良玄寺蔵 (ウイキペディアより)
天文9年(1540)、尾張の織田信秀(信長の父)が松平氏から安祥城を奪い取ります。安城合戦のはじまりです。
天文14年(1545)9月、松平広忠(徳川家康の父)は安祥城奪回をめざして、有利に兵を進めますが安祥城に達した頃、織田側の援軍に挟み撃ちにされ、危機に陥ります。
本多忠豊(忠勝の祖父)は主君広忠(徳川家康の父)を救うため、その身代わりとなって敵中に突撃し、この地で討死にしたと伝えられています。
寛政6年(1794)、戦死したとされる場所に子孫である岡崎藩主本多忠顕により墓碑が建てられました。安祥城から300mほど離れた住宅群の中にあって驚きました。
大亀の墓碑は、徳川に功績があった者だけに許されるそうです。
天文18年(1549)3月、松平広忠(徳川家康の父)が没する(暗殺説も)と今川軍は岡崎城に入り、松平軍と共に安祥城奪回に乗り出しました。
先鋒をつとめた松平軍の主将本多忠高(忠勝の父)は、時の安祥城代・織田信広(信長の兄)を本丸近くまで追いつめますが、敵の矢に当たり討死にしたといわれています。
寛政9年(1797)に子孫である岡崎藩主本多忠顕により、戦死したこの場所に墓碑が建てられました。
大亀の墓碑は、徳川に功績があった者だけに許されるそうです。